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マリーナFC 30周年

30周年メッセージ 第9回 日岡裕之さん

投稿日時:2020/08/23(日) 04:59

30周年メッセージ、第9回は原田さんからの御紹介、日岡裕之さんです。

マリーナF.C.の皆さま、こんにちは。
元FCコーチ、また第4代代表を務めさせて頂きました日岡と申します。
先ずはFC創立30周年、おめでとうございます。
そしてこのコロナ禍の厳しい状況の中でも、どのようにして「子供たちと一緒にサッカーを楽しめるか」というマリーナF.C.の究極の目的達成にご尽力されておられること、大変偉そうで申し訳ないですが、頭が下がる想いであり、心より感謝申し上げます。
石井敬コーチからこの寄稿の趣旨を伺い、そして先に寄稿されている「褐色の弾丸」原田元コーチからのご指名により、大変僭越ではありますが、当方の「マリーナF.C.」の思い出を少し語らせて頂きたいと思います。


私がマリーナF.C.のお世話になり始めたのは、今年32歳と30歳になった長男・次男が1995年にそれぞれ1年生チーム、幼稚園生チーム(次男はまだ年少生でしたが、石井さんの息子さんがいた年長生のチームに「配慮」を持って加えて貰いました)に参加させて貰ったのがきっかけです。
もう25年も前のお話ですね。
翌年、石井さんの学年が1年生になるのに合わせ、「息子さんが二人もマリーナのお世話になっているのだから、(当然)幼稚園生チームを宜しくね」とやんわり説得されました。
テニスウェアで観戦・お手伝いをしていた素人親父が、翌週からは「上から下までルコック」のサッカートレーニングウエアに身を包み、以来、次男のチームの卒業をコーチ・監督として見届けました。
その後もう1年、4年生チームをコーチとしてサポートをさせて頂き、2003年半ばに転勤で日本を離れるまで、マリーナF.C.に関わらせて頂きました。


1995年から2003年まで、丁度その間には1998年の日本男子代表のワールドカップ初出場、2002年の日韓ワールドカップ開催と日本サッカーが大きく盛り上がり、今の成長の基礎となった時代でした。
マリーナF.C.も創成期のご苦労を経て石井敬さんが3代目の代表に就任する頃から「サッカーブーム」に乗る形で部員数も増えクラブの規模も大きくなってきました。
そんな状況の中でも石井さんは、これまでもあったマリーナF.C.の良さであり基本方針である「子供たちにサッカーを楽しませる」を活かしつつ、「サッカーのスキルも伸ばし、結果としてチームを強くする」方向性を打ち出されたと思っています。
私はその方針を引き継いで、代表を2002年から2年させて頂きましたが、先に述べたように転勤により、途中で野崎コーチにバトンを引き継いで貰ったという次第でした。
真ん中に写っている、赤いシャツを着ているのが私です。


「子供たちにサッカーを楽しませる」と「チームを強くして試合や大会で勝ち上がる」ことは、コーチ達が常に悩む両立の難しい永遠の命題であることは、今も変わっていないと思います。
今思い出すと少し恥ずかしい気持ちになりますが、正直、次男が高学年になってきた当時は部員も多くなり、サッカーが上手な子供たちも一杯入ってきましたので、コーチとしてまた親として「子供たちに勝たせてやりたい」という欲望が大きくなってきたのは事実です。
そこで我々コーチ達とお母さんたちと話し合って出した結論が「市内トーナメント戦はチームを優劣をつけ優勝を狙う、リーグ戦は均等分けチームにして皆が出来るだけ多くの試合に出て、楽しむ」というチーム運営方針とチーム分けでした。
トーナメント戦の結果は4年生時に準優勝、6年生では優勝でした。
これもきっとその後のFC各チームの良き(悪しき)前例になったのかもしれませんね。
日常の練習は現役の大学生の「お兄さんコーチ」を招聘して来て、上手いお手本を見せる、真似させる。
子供たちは正直ですから高学年になると私たち「親父コーチ」の言う事はほとんど馬耳東風だったでしょうが、彼らから説明して貰うとちゃんと聞いてくれます。
濱田コーチ、勝部コーチ、本当にありがとうございました。
更に練習の基本は「ミニゲーム」としました。これも兎に角「楽しんでスキルを自然に身に着けて貰う」ことに重点を置いて、色々なスタイルのゲームを工夫してやりましたね。
自分で言うのも如何なものですが、サッカーは見るだけのスポーツで、自己中心的な人間だった私が、土日のほとんどを少年サッカーに費やすことになりました。
次男の同級生達を自分たちの子供のように大事に思い、一緒に走り、ゲームで遊び、大会の試合には笑いあり涙ありのかけがえのない楽しい時間を過ごさせて貰いました。


少年サッカーという事では、2003年に転勤で赴任したハワイ・ホノルルでも縁があって、日本語補習校が終わった後の時間に、地元の少年サッカーのコーチを2年ほどいたしました。
やったことはマリーナFC時代と同じですね。
「子供たちと一緒に楽しくサッカー・ミニゲームで遊ぶ」でしたが、ワイキキの高台にある公園で風を受けながら、練習後子供たちはジュース、我々はビールを飲みながらの反省会は「明海ファミリーマートの前」でのそれにも負けない位(きっとそれ以上)最高に気持ち良かったですよ。


全ては二人の子供たちのお陰、彼らが私の人生にくれた「贈り物」と思っております。
少年サッカーとその機会を与えてくれたマリーナF.C.にも、感謝以外の言葉が見つかりません。
それから、10年近くずっと応援し、そして最後は育成会の代表としてもサポートしてくれた、私の妻にも本当に感謝ですね。
マリーナF.C.がこの先40周年、50周年と長きに亘って発展し、子供たちの笑顔を一杯作ってくれることを願い、応援しております。

追伸1。
次男・修児はマリーナF.C.卒業後習志野のクラブチームに入り、高校では八千代高校でサッカーを続け、3年生時の選手権大会県予選の決勝戦では22番を付けてベンチ入りしました。
残念ながら試合は市船に0-3で負け、選手権大会出場は逃しましたが、大学でもサッカーは続け、今も社会人のチームに入ってボールを追いかけております。
マリーナのお陰で、サッカーが今でも彼の傍にあるのだなと嬉しく思います。


追伸2。
2001年から2002年の2年間、市内選抜チームの取りまとめ役として、千葉県選抜大会の出場のお世話をしました。



追伸3。
マリーナF.C.各学年コーチ達と揃いのユニフォーム(ルコック)を作って、「市内コーチ陣リーグ戦」に参戦したのも良い思い出です。

日岡さん、ありがとうございました。
次回、日岡さんのご家族からもメッセージをいただく予定です。
お楽しみに。
 

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