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マリーナFC 30周年 2020/7

30周年メッセージ 第7回 安光晋作さん

投稿日時:2020/07/17(金) 05:19

安光晋作、高知県出身。
浦安には、2000年10月にニューヨークから帰国してから住んでおりました。
現在は、勤務地のオーストラリア、メルボルン市に住んでおります。
マリーナFCクラブ創設30周年にあたり、心よりお祝い申し上げます。また今回このような機会を頂戴し感謝申し上げます。長男も次男もマリーナFCでの背番号は7番でしたので、今回私が7人目の投稿ということでとても嬉しく思います。


2002年に長男が現在のキッズに入会したのがマリーナとの関わりのスタートです。
たまに練習を見に日の出小学校へ行っていたところ、当該学年の学年代表だった保科さんに見初められ(笑)、2003年からお父さんコーチとしてコーチ登録しました。
私自身のサッカーの経験は中学3年間の部活だけでしたので、30代でまたサッカーに関係するとは思っていませんでした。
2003年から少年サッカーに携わるようになりましたが、年を追って子供たちのサッカーの技量は明らかに向上していたと思います。
これは各コーチがいろいろ工夫しながら子供たちが興味も持つような指導をしていたこともありますが、浦安市全体でサッカーに取り組む環境が向上したことも大きいと思います。
明海球技場や総合公園サッカー場の整備などはその好例だと思います。
また4種委員会の活動を通じて、市内の各クラブが協力したり、サッカースクールを開講するなど少年サッカーを盛り上げようとしたことも奏功したと思います。
長男のころは卒業後サッカーを継続するのは中学の部活が主流でしたが、年を追うごとにクラブチームでチャレンジする選手が増えてきました。これもジュニアサッカーをめぐる環境が整備されてきたからだと思います。
この写真は、長男と次男の学年の子どもたちと指導者で、卒業後に集まってゲームをした時の写真です。
最後列、向かって左から3番目が私です。

(長男世代)「黄金会」
良く言えば熱い、悪く言えば口うるさいダメダメコーチで、今思い出しても恥ずかしくなります。
1996世代のコーチは非常に議論好きで、土日はもちろん、毎週のように平日も会社帰りに新浦安駅周辺で会合をしていました。
「黄金会」のスタートもこの学年のコーチからだったと思います。
4年生の時に当時の郡市ブロック大会のブロック予選を数年ぶりに勝ち上がり、その勢いで当時はほとんど実施していなかった遠征をどんどん組み入れ、育成会と衝突したこともありました。
思い出としては、5年生の時の菅平高原への合宿です。
当時のマリーナの合宿は学年合同での「マリーナ、海へ行く」でしたが、この代では学年単独でいわゆる「サッカー合宿」を実施しました。
初めての企画でしたので、実施まで育成会の皆さんとも入念な調整が必要でしたが、天然芝のグランドで暑さを忘れてサッカーを楽しむこと、また往復に公共交通機関を利用することで選手たちが社会性を学習することには大いに役立ちました。
学年ごとのサッカー合宿の流れを作ったとも言えます。


(次男世代)「県内での知名度Up」
この代はやはり5年生の時にAチーム(アロー)が県大会を制覇したことが一番の思い出です。
初戦で苦労したので2回戦はもう難しいかも?と思ったのですが、2回戦を6-0で勝ち上がり勢いがつきました。準決勝・決勝の会場には他の学年の選手・コーチはもとより、浦安市内のサッカー関係者も駆けつけてくださり、盛り上がったことを覚えています。
そのあとの南関東大会では、前日の監督会議などいわゆる「お作法」を知らず、ずいぶん恥ずかしい思いもしました。(笑)
もう一つ、マリーナ1999ビジョンである「さくら水産議定書」の策定です。
これは、3年生の時に策定したものですが、黄金会から拡大した黄木会、黄水会などで議論し、この学年として1年後、3年後、10年後にどのような姿になりたいかを考えたものでした。
「10年後、全員で笑って楽しく同窓会をやっているチームになる」という目標でしたが、この目標は今年の成人式で無事達成できたようです。


(2003世代)
次男が卒業しコーチをどうしようかと思っていた時に、また保科コーチからお声掛けいただきこの代に3年生から参加しました。
自分の息子がいなくなり、一歩下がって選手・コーチを見ることが出来るようになり、私自身非常に成長できた期間でした。
お父さんコーチが区切りごとに各選手を表彰するなどのアイデアに感動したことも覚えています。
5年生以降は、前年からのGAリーグに参加したり、試合が多くなりそのスケジュール調整で忙しくなり、自分の息子たちの頃と比較すると状況もずいぶん変わってきたと感じていました。


マリーナの中では2006年から2011年まで6年間クラブ代表を務めました。
当時は日の出地区にマンションが続々と完成し、それに従い小学生が増加したこともあり会員数も260名を越える大所帯になりました。
おそらく千葉県で一番会員数の多い街クラブだったと思います。
コーチも80名を越え、毎月のコーチ会には育成会を含め100名余りが集まっていました。
そうしたなか2010年に20周年の記念式典を日の出小学校体育館で、懇親会をニューマリーンズで行いました。
この年に1999世代が5年生県大会で優勝と3位、2001世代が3年県大会準優勝、4年県大会優勝と県レベルで実績を残したこともあり、千葉県内でもいろいろなチームの大会や練習試合に誘ってもらったり、GAリーグに参加したりとどの学年も活動範囲が大きく拡がったころでした。
選手だけでなく、コーチも多くのチームの皆さんと接することで成長する機会を得ることが出来ました。
この繋がりのおかげで、翌年の東日本大震災で浦安市内の施設が利用できない期間でも、多くのチームからサポートしていただけるとの連絡を頂き、各学年が毎週遠征で練習や練習試合の機会を得ることが出来ました。


(オーストラリアのサッカー事情)
オーストラリアのサッカーはシーズンスポーツで夏の間は行われません(プロのAリーグは別です)。
基本3月から10月がサッカーシーズンで、10月から3月は同じグランドでクリケットが行われます。
多くのクラブチームは小学生から大人まで年齢ごとにチームを持っています。
マリーナで言えば、U6からU12まではもちろん、U13からU18まで学年ごとに、さらに大人のトップチームと、セカンド、サード、それにシニアがあるイメージで、専用の球技場とクラブハウスを普通に持っていて、周囲の住民がサポーターとして運営を補助しています。
長男も1シーズンだけこちらのチームで活動しましたが、1シーズンの参加費が1000ドルくらいでした。専用の球技場は基本的に天然芝ですので、プレーするための環境は整っています。
私はこちらでは審判活動のみでプレーはしていません。シーズンの週末に試合がありますが、その週の火曜日に審判割り当てが来ます。
審判の待遇も整っており、試合会場の控室やシャワーなどの施設に不備があると後でホームのクラブチームには協会からお叱りが行くようになっています。
審判はだいたいU15から大人のセカンドチームまでの試合の主審をやっています。
サッカーの競技ルールや選手とのコミュニケーションを取ることの重要性は日本と同じですが、審判報告書の仕様や、試合後インターネットで報告するなど日本では行われていないこともあります。

(最後に)
これからのマリーナFCには、今もクラブの運営方針の一つになっていると思いますが、サッカーという「言語」を通じて、子供から大人まで楽しめるコミュニティの役割を果たしていただければと思います。
オーストラリアのチームを見ていて思いますが、やはり地域に根差した活動をしながら、地域の皆さんにそれを応援してもらえる団体になっていただければと思います。
コーチ、OBの皆さんに現役世代の選手が気軽に集まって、日曜日にボールを蹴ったり、サッカー以外でも交流の場を提供していただけるとありがたいです。
個人的にはクラブ代表、代表補佐と結構マリーナに関わってきたつもりでしたが、年数にすると2003年から2017年までですから、クラブの歴史の半分にも満たないことになります(笑)。
特にクラブ創設の初期にご尽力いただいた皆さまには多くのご苦労があったと思いますし、30年という節目にあたり、今までクラブ活動にご協力いただいた育成会、コーチの皆さん、そして何よりもマリーナでサッカーをしてくれた選手の皆さんに感謝の気持ちをお伝えしたいです。
これからも40年、50年と歴史を刻めるように、どこかでマリーナに関わり続けていただければ幸いですし、もちろん私自身関わり続けていけたらと思っています。