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マリーナFC 30周年 2020/5

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30周年メッセージ 第5回 木佐貫康夫さん

投稿日時:2020/05/31(日) 14:46


30周年メッセージ、今回は中山コーチからの紹介で、ガールズ、小学生、キッズのコーチを歴任された木佐貫さんにお願いします。

皆さん、こんにちは! 木佐貫 康夫(キサヌキ ヤスオ)です。
現在キッズ担当のコーチをしております。
マリーナFCに関係して19年になりますが、ガールズ3年間、1997年世代6年間、2004年世代7年間、キッズ3年間コーチとして関わってきました。

二女が、小学校3年生の際に、マリーナガールズに入部したのがキッカケになります。
二女はサッカーが好きというより仲が良い友達がガールズに入っていて、友達たちが参加する夏合宿に行きたくてガールズに入ったようでした。
私は小学校から高校までサッカーをやっていたこともあり、毎週のように子供たちと一緒にサッカーをしていて楽しくなり二女が4年生になった際に、コーチをすることになった次第です。

ガールズは、ともかく子供たち(女の子たち)を楽しませるということが第一優先でやっていて、技術は後回しという感じでした。
それは女子のサッカー人口が少なく、一人でも多くのサッカーをする女の子たちを増やそうという大人の考えがあったからで、マリーナガールズのベースもそこにあったからだと思います。
また楽しければサッカーが好きになるということもあると思います。
キッズも同様で、マリーナに入ってきてサッカーを始めるという入門の段階では「楽しませる」ということは、大事な要素だと思います。
男の子の場合は、楽しみながらサッカーをやっていくことによって、やがて技術的なことに芽生えていくというステップが出てきます。
男の子と女の子の違いは、サッカーが好きになって技術要素に芽生える速さが異なるように思います。
男の子の場合、早い子では1年生になった早々からキック力があって技術的にレベルの高い子供が出てきます。
そしてそういう子供から刺激を受けて、周りの子供たちも芽生えていくという感じになります。
女の子でも高学年になると徐々に芽生えていく子供が出てくるのですが、そういう子供は少ない感じがします。
環境によっても違いますが、たいていはそんな感じだと思います。

二女がガールズに入った際、ガールズは幼稚園から6年生まで合わせても20名程度しかいなく、各学年で数人しかいない状態でしたが、なぜか二女の学年だけが12~3名いて、同一学年で11名のチームができるという異質な学年でした。当時浦安市全体でも、ガールズは各チーム数人しかいなく、ガールズだけでリーグ戦を組むのも大変な状況でした。
また他チームでは男の子と一緒にチームを組んでリーグ戦に参加しているレベルの高い女の子も数人いました。
二女が高学年になった際に、他チームのコーチたちと相談してレベルの高い女の子と人数の多いマリーナガールズと一緒にチームを組んで、浦安ガールズとして大会に参加しようということになり、県大会で準優勝して南関東大会に参加するなどおおいに盛り上がったことが良い思い出になっています。

1997年世代の子供たちとの思い出といえば、5年生の時に、秋津小学校で実施されたサッカークラブのカップ戦で優勝したことです。
小さな大会でしたが、優勝ということを経験したのは初めてということもあり、子供たちが大変喜んだことを覚えています。
この大会で優勝したということもあり、6年生になった際に、マリーナFCでもカップ戦をやりたいという機運が学年のコーチや親御さんから声が出て、クラブに企画案を出したところ、了承され「マリーナカップ」という名称で、クラブとして初めて開催する運びとなったことを覚えています。
「マリーナカップ」については、毎年6年生が親交のあった他クラブを招待して継続開催されています。

2004年世代の子供たちとの思い出は、なんといっても東日本大震災です。
この世代が幼稚園から小学校に上がるときに震災が発生しました。
この世代の子供たちはキッズ世代では珍しく20名ほどいて大人数だったのですが、グランドが液状化で使用不可ということで活動がストップ、途方に暮れていました。
そんな中、あまり被害を受けていない小学校から一緒に練習や試合などをしながら遊びませんかというお声がけがあり、まだ慣れていない親御さんたちとともに小さな子どもたちを連れて電車で移動したことを思い出します。
この際にお世話になった千葉市や江東区のクラブの皆様には頭が上がらない気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。

マリーナは、地域に根差した活動を地道に続けることが大事と思います。
私は32年前に結婚を期に浦安に住むことになりました。
当時の浦安は、日の出地区がまだ発展途上で、京葉線も未開通、浦安駅までバスで通勤というとても不便な地域でした。
当初は知っている人もわずかで、なかなかなじめなかった点がありました。
子供たちが徐々に育って小学校に通うにつれ、少しずつ知り合いが増えては行きましたが、挨拶程度だったように思います。
そんな中で、二女がマリーナFCに入り、一緒にコーチとして活動することにより、週末に練習のみならず、イベントや飲み会などを通じて、親御さん達とサッカーを離れた場所でのお付き合いをするようになりました。
平日は仕事、週末は浦安の方々とのお付き合いという生活になり、幅広い方たちとの交流や知識を得ることによって自分自身の成長にもつながったように思います。
また浦安という街に愛着が出てきたようにも思います。そのきっかけになったのは、マリーナFCの活動があってのことだと思います。
どんな人でも受け入れて子供だけでなく親御さんも一緒に楽しむというこういった活動はぜひ継続していってもらいたいと思っています。

マリーナで一緒に活動した6~8年間は、子供も大人もとても大事な時間であったということを実感していると思います。一緒に活動して、試合で勝ったり負けたり泣いたり言い合いになって喧嘩したりと、いろいろな事を経験することで、なんでも言い合える、仲の良い関係ができたのではないかと思います。
このお付き合いを大事にしていってもらいたいと思います。
毎週日曜日朝7:30~9:00まで日の出南小学校で、マリーナFCを卒業した子供やコーチたちがサッカーをしております。
10代から60代までの、いろいろな年代の方々がボールを蹴っています。ボールを蹴りたくなったら、是非遊びに来てください。(コロナ明けになりますが!)

木佐貫さん、ありがとうございました。
これからも身体に気をつけて、サッカーを楽しんでください。
 

育成会報1991

投稿日時:2020/05/24(日) 05:51



中山コーチから、創立当時の育成会報をいただきました。

当時の代表、小松さんのコメント

小松さんの次に代表をされた吉田さん


初代ガールズ代表の青木さん




前々回メッセージいただいた竹内さん(父)


手書きというのが、当時をしのばせます。
創立当時のみなさんの想いが伝わってきます。

クラブ体制の変遷 1997、2002、2004.2006

投稿日時:2020/05/23(土) 07:57


リーグ戦のパンフレットから、クラブの概要を紹介します。
これは1997年です、フランスワールドカップの1年前。

2002年、日韓ワールドカップ開催の年です。

2004年の体制です。
このころまでは、住所や電話番号などの個人情報を掲載していました。

2006年、ドイツワールドカップの年です。
個人情報保護法の関係で、個人情報は掲載されなくなりました。

第1回総会資料

投稿日時:2020/05/22(金) 08:39


30周年メッセージをいただいた中山コーチから、記念すべき第1回総会資料(設立2年目)をいただきました。

当時はグランドの確保が大変で、創立当初の関係者の方があちこちに掛けあって、日の出小学校の校庭ほか、日の出中学校建設予定地、明海大学内空き地、日本航空独身寮グランド(現コスモ新浦安)、日の出幼稚園横空き地などで練習したり、イベントを行っていました。

30周年メッセージ 第4回 中山健吾さん

投稿日時:2020/05/17(日) 11:01

30周年メッセージ、第4回は竹内さんからの紹介。
マリーナのスタート時から現在まで、29年間コーチを続けていただいている中山さんです。

皆さん、こんにちは!中山健吾です。
3月に5回目の卒団生を送り出しましたが、今年は学年担当から離れ、マリーナFC全体への支援が
何か出来ないかと考えています。
田中代表へは、クラブ内の審判経験豊富なコーチの方々と一緒に、各学年への審判支援を主とした活動を行いたい旨、お願いしているところです。


平成3(1991)年4月に長男が日の出小入学と同時にマリーナに入会することとなり、何かお手伝い出来ればと思い、軽い気持ちで校庭に足を運んだのが最後、いやキッカケでした。
他のお父さん2人と一緒に1年生担当コーチを引受け、約20名の子供達と練習が始まりましたが、4年から2年生、ガールズと同時刻(土曜日14時から)に日の出小校庭を利用していた為、時には1年生のみ日の出幼稚園脇の空き地(現駐車場)でボールを蹴ったこともありました。
当時のマリーナFCは前年(1990年)4月7日に3年生7名、2年生7名にコーチ3名でスタートしましたが、この時には約90名の所帯になっていました。


私が長くマリーナFCの活動に携わって来たのは、単純にサッカーが大好きで、その自分の大好きなサッカーの魅力を子供達や保護者の方々に伝えたい思いからです。
その思いを実現する為に、子供達へのアドバイスや、元気づけ、育成会の方々と一緒になっての応援等毎回行ってきましたが、いつも十分に子供達をサポート出来なかったという自分なりの反省があり、結果として長く携わって来たのかもしれません。
エピソードと言えるのか解りませんが、攻守の切り替えを早くする時に、“HURRY”という掛け声を子供達にかけたことで、当時の育成会の方から、ハリー・中山と渾名されたことがありました(笑い)。


マリーナFCを取り巻く環境はこの30年で劇的に変化したと思います。
創立当時はサッカーを経験したことのあるコーチの数も少なく、毎週毎週手探りの状態で子供達に接していたような気がします。
時にはイライラが影響して、子供達に声を荒げたこともありました。
私から一番に怒鳴られたのは、長男でした!
マリーナFCの子供達は、今も昔もサッカーが好きな事に変わりはありません、毎週末の練習や試合を楽しみにしています。
コーチも保護者の方も、その思いに答えようと本当に熱心に子供達を後押ししていますが、逆にそれが子供達の負担になっているのではと思うことがあります。
創立当時は、コーチが子供達と一緒になってボールを追いかけていました。
練習メニューもワンパターンで、技術的な事や戦術的な事は殆ど教えていませんでした。
それでも、卒団の時に、「サッカーの楽しさを教えてくれてありがとうございました」と言ってくれた子供がいたことを思い出します。


マリーナFCに行けば、老若男女誰もがサッカーを楽しめる、地元の方々に愛される街クラブであって欲しいと思います。
これだけ長くマリーナFCが活動することが出来たのは、サッカーが大好きな子供達とコーチの皆さん、そしてコーチと子供達を精一杯サポートし続けて頂いた歴代の育成会の皆さん夫々の努力の賜物と思います。
本当にありがとうございました。
そしてこれからも宜しくお願い致します。

マリーナFCでの活動は、私にとっては本当に夢のような時間でした。
その夢のような時間を過ごさせてくれたのは、私の妻です。
妻のサポートがあってのマリーナFCの29年間でした。

中山さん、ありがとうございました。
身体に気をつけて、これからもよろしくお願いいたします。
 
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